小湊フワガネク(外金久)遺跡

平成9年(1997)の奄美看護福祉専門学校の拡張工事に伴う緊急発掘調査、及び平成12年年度から国・県の補助事業を導入した遺跡範囲確認調査によって、遺跡の概要が次第に明らかになりました。

小湊フワガネク遺跡は、奄美大島中部の太平洋岸、弓状の砂丘上標高9mに立地。6世紀から8世紀代に属する貝製品の生産を行った集落遺跡です。

遺跡の中央部では、床面に炉を有した掘立柱建物跡4棟が、遺跡の北端部では墓1基が確認され、食用にされたと考えられる各種貝殻や獣骨や魚骨なども多数出土し、当該期における生活の様子が明らかになりました。

また、ヤコウガイ製貝匙(カイサゾ)、イモガイ製貝符といった貝製品が、大量の未製品と貝殻破片、そして、敲き石(タタキイシ)や磨石(スリイシ)とも共伴して出土したことから、ここが貝製品の製作場所であり、製作工程も明らかになりました。

このように、小湊フワガネク遺跡は、6世紀から8世紀代における奄美地域の生活の復元を可能にすると共に、ヤコウガイの貝製品の生産を行ったことを明らかにしたという点で極めて重要であり、また、当該期の本州から九州にかけては、古墳時代から古代へ移行する時期であるが、そうした政治的影響のほとんど及ばなかった地域の社会を解明する上でも重要です。

また、9世紀後半から王朝文学と言われる平安時代の文学作品等にも「螺杯」の用語が登場し、ヤコウガイが宮廷貴族の間でも珍重されている様子が窺われ、また、ヤコウガイ貝殻は人気があり贈答品としても利用されていたようです。

さらに、11~12世紀になるとヤコウガイは、11世紀に建立された平等院鳳凰堂や、12世紀の東北の中尊寺金色堂には、新しく工夫された螺錮細工が施され、螺錮材料としてのヤコウガイの需要が増大したと考えられ、その原料材として奄美のヤコウガイが使用されたのではないかと言われています。

この11~13世紀頃は、徳之島ではカムィヤキが、奄美ではヤコウガイが交易の中心となり、また、中国の宋では、火薬の原料として「疏糞」必要とされ=徳之島の近くの硫黄鳥島からの硫黄や、長崎の西彼杵郡の「石鍋」が交易品として取引されるようになります。

このように、南西諸島等の徳之島、奄美大島、万の瀬川流域河口、壱岐、対馬、博多、高麗・宋と九州西海岸ルートの交易が繁盛した海上の道が注目されたのです。